宝満宮竈門神社

歴史

結びの社

 古来、「縁結び」、「方除け」、「厄除」の神様として信仰されている竈門神社。
 
 主祭神に玉依姫命(たまよりひめのみこと)をお祀りしていることから、魂(玉)と魂を引き寄せる・引き合わせる(依)という御神徳を慕われ、古くから「縁結びの神」として広く信仰されてきました。「縁結び」とは、男女の「良縁」をはじめ、家族、友人、仕事、自然などとの良いご縁を結んでいただける神様として広く親しまれています。
 
 また古くは、大宰府政庁の鬼門除けとして、また、大陸へ渡る人々がこれから進む航海(道)の安全と事業の成功を祈願したことから「方除け」、「厄除」の信仰も篤く、現代においても、新たな生活をはじめる方や、人生の節目を迎えた方々などが参拝に訪れ真摯な祈りが捧げられています。

 創建以来千三百五十年を越える長い歴史を引き継ぎ、これから未来へより一層信仰の輪を広げ、多くの人々の神様として、親しまれていくことを願っています。

竈門神社の歴史

天智天皇の御代、九州一円を統治する大宰府政庁が置かれた際、鬼門にあたる竈門山(宝満山)では大宰府また国家鎮護のための祭祀がはじまりました。頂上の上宮が建つ巨岩の下からは和同開珎をはじめ皇朝十二銭や奈良三彩など、奈良時代から平安初期に国家的な祭祀が行われていたことを示す数々の出土品が確認されています。

天武天皇二年(673)、開山心蓮上人が山中で修行中、にわかに山谷震動して貴婦人が現れ、「われはこれ玉依姫の霊、現国を守り、民を鎮護せんために、この山中に居すること年久し。」などと告げ、金剛神に姿を変じ九頭の龍馬に駕して天を自在に飛行しました。心蓮上人は直ちに朝廷にその旨を奏上すると、朝廷の命によって上宮が建立されました。

宝満山が大宰府政庁と密接な関係にあったことから、最澄や空海をはじめ、遣隋使や遣唐使など大陸へ渡る人々が航海の安全と、目標達成のために登拝し、祈りを捧げた山として大切に守られてきました。

中世以降は修験者による信仰が盛んになり、険しくも秀麗な宝満山の姿に多くの山伏が憧れ、厳しい修練を重ね、世の平安と人々の除災招福のための加持祈祷が行われました。

江戸時代の博多の禅僧で著名な仙厓和尚も宝満山に魅了された一人で、頂上下の竈門岩の伝承に深く感銘し「仙竈」の文字を大書して「仙厓敬書」の銘を刻みました。

竈門神社は、承和二十二年(803)に従五位上が授けられ、その後徐々に位階を進め、嘉承元年(1106)には正一位を贈られ、『延喜式』には名神大社にも列せられました。そして明治二十八年(1895)、竈門神社は官幣小社に列せられました。

現代においても、縁結び、方除け、厄除の神さまとして多くのご参拝をいただいているほか、桜や紅葉の名所としても親しまれています。歴史と文化が息づく太宰府の街に、人と人の心が通い合う祈りの山として、これからも大切に守り伝えられていくことでしょう。