宝満宮竈門神社

宝満山

霊峰 宝満山への信仰

 九州で最も登山者が多いといわれている宝満山は、古の時代より神が降り立つ山として崇められてきました。別名の「竈門山」とは、頂上付近に遺る竈門岩の伝承によるものと、江戸時代の儒学者貝原益軒も「筑前国続風土記」にも記しているように、山の姿がカマドの形に見え、常に雲霧が絶えず、それがカマドで煮炊きをして煙が立ち上っているように見えることに由来していると言われています。

 平成25年10月、宝満山はわが国の歴史上においても大変重要な国家的祭祀が継承されてきた信仰の山「霊山」として、その歴史的・文化的価値が認められ、鳥海山、富士山に次ぐ、全国3例目の国史跡に指定されました。

宝満山山頂
竈門神社 上宮へのお詣り

 標高829メートルの宝満山頂には竈門神社の上宮があり、麓に鎮座するのが下宮です。頂上付近には玉依姫命の伝承にまつわる馬蹄石や竈門岩などがあり、また山中には益影の井や五百羅漢など、数々の史跡が点在しています。明治以前までは八合目付近に中宮もあり、人々の往来が盛んだったことを知ることができます。上宮の御社殿は北を向いて建てられており、遥か海の彼方の大陸を常に意識してきた日本の歴史と文化の形成を感じることができます。

「宝満修験道葛城入峯之図」江戸時代:宝満宮竈門神社蔵

祈りの山 宝満山

 宝満山が大宰府政庁の鬼門封じとして様々な国家的祭祀が営まれてきたことにより、最澄や空海をはじめ、遣隋使や遣唐使として大陸へ渡る人々は渡航前にこの山に登拝し、航海の安全と自身が担う国家的事業(入唐求法)の成功を祈願しました。それ以後、高僧の往来も盛んになり、平安時代末から鎌倉時代には周辺に三七〇もの坊舎が存在したと伝えられています。中世以降、宝満山での信仰は蒙古襲来を契機として修験道と結びつき、神仏習合の色合いを強めていきます。修験道とは、日本古来の自然崇拝信仰に、神道、仏教ことに密教、道教、陰陽道などが集合した宗教であり、修験者(山伏)は山中での厳しい修行により功徳を得て、世の人々を救いました。
中世末に戦乱の被害を受けますが、豊臣秀吉や小早川隆景、また歴代の黒田藩主の寄進を受けて、建物や霊場の整備が進められ、再び祈りの山として信仰を集めました。
明治時代に入り、新政府の方針で神仏分離令が発せられ、修験道は廃止され仏教的な要素を含む建物や仏像は破壊され、宝満山伏たちも山を追われることになりました。しかし、昭和57年(1982)、この山の開祖心蓮上人の千三百年忌を期に宝満山伏の末裔が中心となり「宝満山修験会」が再び結成され、以来、新緑が眩しい毎年5月には、峰入りや採燈大護摩供などの行事が厳修されています。